「真面目に仕事をすること。母親を二度と泣かせないこと。 」懐の深さで人を育てる日本村社会

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2017年の最後に世間を騒がせることになった日馬富士関による暴行事件は、いつの間にか相撲協会の村体質に批判が集まる様相を見せてきました。
曰く相撲協会は隠蔽体質でありグレーゾーンが多すぎるというのです。興味深いことにこの問題は世論を大きく2分することになっていきます。

そうなると相撲協会を擁護する人々はどこか困ったような顔をしているように見えてしまいます。それに反して全てを表に出さないで内部で処理しようとする隠蔽体質を批判する人々はとても意気軒昂です。
まるで正義の剣を振るう勇者のように颯爽としています。

この「正義論」にすっきり納得することができないでいるのは一体何故なのでしょうか?筆者の身近で実際に起きた出来事を例にとって考えてみましょう。

Sanja Festival.
↑祭りは地域に根差している
 
その町では毎年の祭りが盛大に行われており、地域ごとに神輿を担ぐのが通例ですがこの神輿というのは新調するとなるとそれこそ数千万かかるしろものでした。
その年はすっかり古ぼけた神輿を新調することが決まっていたのです。
 
そこに事件が起きました。青年団の中でも先輩格であり経理を担当していた青年が神輿の予算を横領したのです。
白黒をはっきりとさせるような世界規範からすれば当然警察に通報して、青年はその罪をあがなうべきだと考えるところです。

しかしながら日本村においては大人の男が女性や若者に尊敬されるためには、相手の人生の将来を見据えてより相手が幸せになれるような方向を選択していく度量が必要でした。
そのためにはいわゆる清濁併せ吞む気概が要求されたのです。
「責任は俺がとる」その姿勢が周囲を感服させてきたのでした。

Portrait of young Asian girl with tear rolling down cheek
↑ 母親を泣かせるな

自治会長は全ての責任は自分が持つとしてこの事件を警察に届けませんでした。
なぜなら自治会長は、青年の家が母子家庭であり母親がいくつもの仕事を掛け持ちしながら必死になって女手ひとつで青年を育ててきたことを知っていたからです。
不満を述べる人を自治会長は一喝してしまいます。

「お前は涙を流して土下座をする母親を助ける情がないのか!」

これは大いに不満の残る采配のように思えます。罪を犯したのは青年でありその母親が謝って弁済するというのは筋違いと言えるでしょう。
それに貧しい母親は一生をその苦しむことになるでしょうし、とても返せる見込みもないのでした。自治会長が行ったことはまさしく隠ぺい行為にほかならないでしょう。

Future 
↑誓いを守る

実はこの青年というのは後輩の面倒見も良く青年団の仕事も真面目にこなしてきたのですが、どうも仕事が長続きしません。
すぐに仕事を辞めてしまうような所があったのです。そこで自治会長は縁故を頼って青年の就職の口利きをし、その給料の中から毎月弁済をさせるようにしたのでした。

そうして青年と3つの約束を交わしました。

真面目に仕事をすること
母親を二度と泣かせないこと。
青年団の活動に今まで通り参加すること。

これは青年にとっては針の筵のようなものでしょう。青年がしでかしたことは町の人々が全員知っているし、まして青年団に行けば何を言われるかわかったものではないのですから。

Woman walking in the mystic magic deep forest
↑誓いを守れたのは皆が守ったから

しかし青年は自治会長の懐の深さに深く感服し、青年団の活動に今まで以上に熱心に参加し続けましたし、あれほどこらえ性がなかったのに仕事を辞めることもなかったのでした。
青年には会社を辞めることは恩人である自治会長の顔を潰す行為に他ならなかったからです。

「こんなぼろい神輿じゃ恥ずかしくて担げない」
そんな嫌味を言う者がでると大人がこう叱りつけているのを聞いたものです。

「お前は人ひとりの人生と、神輿がぼろいのと一体どっちが大事だというのだ」
そう言われると言われた若者はは頬を赤らめてその言葉を恥じました。

正義をかかげる人ならば加害者を守って被害者を貶めるなんて間違っているというでしょう。そしてそれは正しいといえます。
しかしそれから20年の年月が過ぎた時、青年は独立して会社を興し弁済を済ませるだけでなく陰ひなたなく町のために力を尽くしたし懐の深い大人の男に成長していきました。可愛い嫁をもらい娘も生まれました。

epic scene
↑清濁併せのむ精神

こうしてみると日本的な村社会というのは人と人との絆が強固であることがわかります。ですからできうる限り相手も自分も共に良き方向に進める方向を探ろうとするのでしょう。

罪は罪でありそれ自体は当然非難されるべきことです。けれどもそのうえで人の情というものを大事にしていくことができて初めて尊敬と信頼を得ることが出来るのが日本の社会でした。

グレーゾーンで物事をおさめるためには皆が少しずつ痛みを分かち合う必要があります。
先の例でいえば古い神輿を我慢することであり、人の信頼を裏切った若者をそれでもまだ仲間として育くもうとする行為がそれにあたるでしょう。

その不満の受け皿としてあえて憎まれ役をかってでたのが自治会長という役職を持つ大人の男なのです。

Statue of justice
↑正義は密やかに

若者は正義感が強いし、そのことはとても素晴らしいことです。しかしながら日本村では正義を口にする人は軽んじられてしまう傾向があります。
それは正義という御旗を掲げると誰も抵抗出来ないからでした。だからこそ正義を声高に叫ぶのは、はしたないことだとされたのです。

正義は密やかに誰にも知られないように行うことであって、それを口にするものは胡散臭いと感じるのです。
日本村のメンタリティでは正義を口にするのは、あまりにも気恥ずかしいことで、「良い事を行う時は人に知られないようにこっそりと行いなさい」と躾けられてきたのでした。

Gavel on sounding block
↑正論だけでは……

正論を振りかざすと「論を言うな!」の一言で叱り飛ばされてきました。これは現在でも社会経験が深い人ならば思い当たることがあるでしょう。
専業主婦である妻や学生である子供は得てして正論を言うものですが、そんな時昔の男はこの一言で退けてしまったものでした。
今ならばさしずめ苦笑まじりに「まぁ、なかなか正論ばかりではうまくゆかないものだよ」とでも言うのでしょうか。

このようないわゆる日本村的論理は現代社会では糾弾されてしまうのでしょう。だからこそグレーゾーンがあっても良いではないかと思う人々の口は、どうしても重くなってしまうようです。

なぜなら本来グレーゾーンというのはあくまでも正義とは言えないことを知っているからです。「罪を憎んで人を憎まず」と小さく呟くことしかできません。

Tokyo pliceman in front of the police car
↑トラブルは全て警察に

ところで最近ネット上で面白い話が投稿されていました。
投稿主はマンションの共用部を塞いで通行の邪魔になっている子供たちに注意をしました。それから程なく子供たちへの暴行容疑で警察に連行されたというのです。
勿論すぐに誤解は解けて釈放されたのですが、その時警官にこのように言われたといいます。

「これからはそのようなことがあれば自分で注意しないで警察に通報してください」

これはお上のお世話になるのは恥であるとする日本村の住人には驚くべきことでしょう。ところがネット上ではそれを当然とする意見もありました。

「私はもうずっと前から、違法駐車を見つけても不審者を見つけてもすぐに警察に連絡していますよ。トラブルを避けるにはそれが一番です」

確かにそれはとても単純明快でわかりやすい解決方法です。

Computer hacker stealing information with laptop
↑監視社会は密告社会?

しかしながら些細な出来事も全て警察に通報するというのにアレルギーを起こす人々も存在しています。
まるでお互いを監視して警察に通報するようなありさまは密告社会を築いていくことになるのではないか?と考えるのです。

実際にここまでネット社会になれば内々に済ますとか、穏便になどと相手を思って良かれと行動することが大きなトラブルに発展することになりかねないでしょう。
まるで今の日本には日本村の住人と世界市民とがまるで違う価値観によって生活しているように思えます。

Angry upset man pointing at his wife
↑一方的な議論は対立を呼ぶ

だからお互いにどうして分かり合えないのだろうと必死になって相手を説得しようとしてぶ然とするはめに陥っているのでしょう。
これは解決できない問題なのでしょうか?ところがそうではありません。昨今の世界の潮流としてお互いが全く違う価値観を持っていることを尊重してゆこうというのが主流になっているからです。

確かに過去の西洋的な価値観であれば相手を悪と断罪し正義の旗をうちたててきたでしょう。
けれども最新の行動心理学や脳科学の研究によって、同じ物を見ていても実際に個人によって見えるものが違うことがわかってきたのです。
 
大人の男が女性や若者に尊敬されるためには、相手の人生の将来を見据えてより相手が幸せになれるような方向を選択していく度量が必要でした。
そのためにはいわゆる清濁併せ吞む気概が要求されたのです。
「責任は俺がとる」その姿勢が周囲を感服させてきたのでした。

Elephant stands on thin branch of withered tree
↑違いを認めるのが世界基準

人々はそれぞれが自分の価値観や信念をもっています。だとしたら相手を否定することも自分を否定することも共におかしなことです。
なるほどそのように考えているのか?とそのまま受けとめるしかないでしょう。

自己主張ですらも最近ではあくまでも相手を受け入れることから始めていこう!と言うようになってきました。
その上で自分の気持ちを訴えていこうというアサーション方式が今の世界基準になりつつあります。
アサーションスキルを駆使したとされるキング牧師があの有名な演説で、支配者の息子と奴隷の息子が仲良く微笑む未来を描いたようにです。

相手を白や黒と決めつけて論破するコミュニケーションや弁論法は、もはや過去のものであり共感と尊重こそが世界基準となっているのです。
そうして相手をそのまま受け入れるありようは日本村の住人にとっても受け入れやすい方法でしょう。

White dove in a blue sky, symbol of faith
↑共に尊重していく世界を大切に

一見お互いに水と油のように分かり合えないと思っていたものが、違っていて当たり前なのだと知れば、そこから理解と共感の扉を開くことが出来るに違いないでしょう。
なにしろ相手を論破したところでそこには怒りしか生まないのですから。
 
日馬富士の引退の言葉でなるほどと思った言葉があります。
「自分が正しいと思い過ぎると行き過ぎる」という言葉です。
自分が正しいと思い込んでいたことが伝わる言葉ですが、それが争いの元になってしまったことがよくわかります。

正義と正義がぶつかるところに戦争や憎しみが生まれるのはよく知られたことでしょう。
受けとめる準備が出来ていないところに自分の正論をぶつければ相手の怒りを買うだけなのですから。

自分が正しいと思うのと同じように相手にも相手の正義や想いがあるのです。
だからこそ違うことを指摘してあげつらうことではなく、違いを認めあうことでコミュニケーションを深めていきたいものだと思うのです。

そうやってお互いを尊重していくことで日本村は世界にあっても誇れる社会を作っていくことができるかもしれません。



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参照:
『町場のメディア論』内田 樹
『お前が言うな』北野 武
『ガラパゴス化する日本』吉川 尚宏
『NLPトレーニング』ロバート・デルツ博士
『アサーション入門』平木 典子


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